人もすなる象徴詩といふものを

われもしてみむとてするなり

はじめに


同一IDでの三つめのブログ。やはり象徴詩というものをちゃんと理解するためには、自分でも作ってみないといけないのではないか、と思って、それ用のブログを用意することにした。

もちろん、象徴詩のよい読み手は、書き手と同じくらいに「創作」することは、私といえども心得ている。読み手は、その行間に、目には見えないかたちで創作するのだ。とはいうものの、それがなかなか困難な状況で、たんに漠然と読んでいるだけで詩が分るようになるとも思えないので、実作者の立場に身を置いて、そっちのほうからも象徴詩というものに親しんでみたいと思うのである。

もっとも、象徴詩というものがすでに過去のもの(百年前のもの!)である以上、現代の日本でそういうものを書いている人はまずおらず、その需要も皆無であろう。私も人に見せて高評を仰ごうなどとは思っていない。そんならわざわざ人前に出さずとも、筐底に蔵していればいいといわれそうだが、それではやはり張り合いがない。たとえ下手でも、人前に出すのを意識することで、少しはましなものが書けるのではないか。そして、ましなものを書こうという努力がなければ、この試みはまったく意味をなさないのだ。というのも、これは象徴詩というものに対する理解を深めるための、ひとつの方法であって、方法というのは正しく行われてこそ初めて意味をもつものだから。

これまで詩など書いたことのない人間には、なかなか骨の折れる作業だが、ここにひとつ、希望を持てそうな助言がある。それはマラルメの、「詩はイデー(詩想、落想、構想)で作るのではなく、言葉で作るものだ」というものだ。これを敷衍すれば、詩心のない人間にも詩は作れる、ということになる。そう、言葉を操るすべを知っているならば。

ただ私がここで思うのは、イデーと言葉とは表裏一体なのではないか、ということだが、それはあまり深く考えないようにしよう。いまはそんな先のことまで考えている余裕はない。とにかく詩作してみること、とりあえず一歩を踏み出すこと、そこから始めたいと思う。